「神は死んだ」というが、信仰の対象はなにも「神」だけではない

「コペル君 いま君は、大きな苦しみを感じている なぜそれほど苦しまなければならないのか それはね コペル君 君が正しい道に向かおうとしているからなんだ」

君たちはどう生きるか』の一節である。おそらくこの本の主題を込めた一節だと思われるが、僕はこのような言説があまり好きではない。

人間はどうして「正しい道」を歩まなければならないのか?そしてそこでいう「正しい道」とはなにか?そこに答えはないし、僕にとっては「どう生きるか」ではなく、「なぜ生きるか」の方がよっぽど大切である。だいいち、「なぜ生きるか」も知らないのに、どうやったら「どう生きるか」がわかるというのだ。

このように感じてしまうのは、僕が不道徳だからではない。逆に道徳的にすぎるのだ。どこぞやで刷り込まれた道徳観念は、自分が考えたうえで取り入れたものではない。頭ではそんなこと重々承知である。そんな道徳観念は捨て去ってしまえばよいのだ。だが、自分のなかの道徳的なるものがそれを許さない。自分で自分を傷つけてしまう。しかし、人を傷つける道徳なんてものになんの意味がある?無駄に罪悪感を煽って、心優しい人たちを縛りつけ、この世はいったいなにをしたいというのだ?もしそれを「正しい道だ」といって押し付けてくるのであれば、ちゃんちゃらおかしい。正しい道なんてくそくらえ!である。

 

自分のことをつくづく道徳的だなと我ながら感じてしまう瞬間は、自分が幸福になるについて親に対する罪悪感を抱くときである。これはもはや道徳的うんぬんではなく、単に親離れ子離れの問題かもしれない。端的に言えば、自分の幸福が親の不幸のうえに成り立っているのではないかという妄想に取り憑かれる、というものである。

僕は親にとって自慢の息子であり(実際にそのように言われるのでこれはもはや評価ではなく事実である、と思っている)、僕の中でも既にそれがひとつのアイデンティティと化している。だから僕はもっと立派な人になりたいし、自分が人生を楽しんでいる姿をもっと親に見せたいという願望がある。しかし、ここで問題なのは、そのとき横に親がいない、自分が感じる幸福と親が感じる幸福があまりにも隔たりが大きい、ということである。そのため、僕が幸せになればなるほど、親は疎外感を強めるわけで、その結果親は不幸になるという定式がなりたちうる。もちろんそのような定式は、「子の幸せを願わない親はいないよ」というその一言によって崩れさるわけだが、それは親がどれくらい子に寄りかかっているかによるのであって、それは子からしたら知る由もない。

僕はこの自分の幸福が親の不幸のうえに成り立っているのではないかという妄想によって生じる罪悪感に苦しんでいるわけであるが、それが本当に「正しい道」に自分が向かう最中であるからなのかと問われると甚だあやしい。親の幸せのために自分を殺し、親の幸せが自分の幸せだと言い切るのが正しい道なのか、親を殺し、自分の幸福を追求するのが正しい道なのか。道徳のお話なんかで出てくるのはおそらく前者であろう。親孝行の青年がどうのこうの、みたいな。ただ結局親孝行を美徳とするのは親側の視点にすぎないものであって、「人として正しい」なんて表現はあまりにも曖昧で、寄って立つべきものとは到底なりえない。

 

さて、実を言うと、僕は最近自分を苦しめているものの正体が罪悪感などではないことに気が付き始めた。仕事でも人間関係でもなんでもそうだが、どんなとき苦しいかと言われたら、板挟みでどっちにも与することが素直にできない場合であって、要はそこに葛藤がある場合である。価値と価値がぶつかり合うときとか、情報が圧倒的に不足しているにも関わらず岐路がどんどん迫ってきているときとか、決断ができない類の状況。

具体的にどんな葛藤かというと、「頑張りたい」という自分と「頑張りたくない」という自分で揺れ動いているというだけの話である。これを巧妙に親への感情へとすり替えると、「頑張りたくない」側についていえば、「頑張ることで自分がもっと社会的に成功するのだとすると、自分はよいかもしれないが、親は寂しがるし不幸になるかもしれない。それは結局自分にとっても不幸なのではないか?」といった感じになる。この一種の罪悪感的なるものに苦しんでいたのだと思っていたが、実はそうでなく、しかもここからが問題で、「頑張りたい」側の方の答えが不毛であることにある。すなわち、なぜ頑張るのか?と問われて社会的に成功したいからと答えたとしても、なぜ社会的に成功したいのかと問われると、僕の場合は親への承認欲求につながっていってしまう可能性が極めて高い、ということである。

ということで結局、「頑張りたい(親のため)vs 頑張りたくない(親のため)」という超不毛な構造に陥っており、超不毛だからこそまったく結論がでなくて苦しんでいたということになる。

 

ニーチェは『ツァラトゥストラかく語りき』で「神は死んだ」と語った(ちなみに『ツァラトゥストラかく語りき』はやばすぎて読むの途中で挫折した)。神とはすなわち、罪深い我々人間を許してくれる大いなる存在であって、弱きが善であり、心優しきが善であるとするものであるが、ニーチェによればこのような神は、高いところにある甘いブドウを取ることができないキツネ(=弱者)が本当であれば甘いブドウが食べたいにも関わらず「甘いブドウを食べるようなことは不道徳である」などとして価値の転倒を起こすことで甘いブドウを食らう輩に精神的に勝利するその構造を提供してくれるためのいわば弱者のルサンチマン(憤り、憎悪)によって生み出された幻想にすぎないものである。

僕にもそういうところがある。歪んだ考え方だし、普通にこじらせている。つまり、神とは信仰の対象であるが、僕にとっての信仰の対象は「親」である(上記で自分の動機が「親のために頑張りたいけど、親のためにも頑張りたくない」であることを告白したとおりだ)。親が「あなたは善い人だ」といってくれさえすれば、僕は救われる。そのような「神」を信仰する僕は、「神」を信仰しない人を心のどこかで軽蔑するし、かつ、自分がより道徳的であることにどこか精神的な優越感を覚えている。だがこれも結局「弱者のルサンチマン」だ。親が僕を溺愛していることもあって、それによって身動きがとれず無力感に打ちひしがれている「弱者」である僕は、親と適切な関係で保って自由に楽しく動き回っている「強者」たちをみて、「あんな不道徳なやつらのことは理解できない」と精神的に勝利するのである。我ながら姑息な心性だと思う。

だが、そろそろ僕も「親」の息の根をとめることができるかもしれない。だって、「親」がただのルサンチマンによって生み出されたものでしかないということに気が付いて、心底ハラオチしたから。

まとまりがないが、なぜ「神は死んだ」のかはまだ研究中。今回はこれにて。

 

(追記)道徳論については僕の原初の興味であったようで、5年前にこんな記事を書いてたのでこちらもどうぞ。