宝くじ売り場に並ぶ人たちは果たして幸せなのだろうか?

長蛇の列がある。それはそれは長く、老若男女がそこにはいる。

みなさんは、銀座の数寄屋橋交差点の近くに宝くじ売り場があるのはご存知だろうか。土日のそこは、文字通り人で溢れかえっている。

初めてそれに遭遇した時、僕は激しい嫌悪感を抱いてしまった。こいつらは宝くじの期待値の低さを知らないのか、数学で確率というものを習いはしなかったか、と。銀座には楽しいところがやまほどある、さっさと銀座のギャラリーへでも行って列に並んでいる時間をもってしてもっと人生を豊かにしろよ、自分の人生に投資しろよ、と。

一方で、隣にいた相方から、並んでいるのは比較的年配の方が多いのではないかとの指摘があった。なるほど、余生残り少ない人であれば、自分に投資したってもうリターンはたかが知れているから、宝くじを買っていっときの高揚感を得る、これはかなり有効なお金の使い方だといえる。宝くじほど夢を見せてくれるイベントはたしかにそうそうない。ドリームジャンボ、夢はでっかくだ。

こんなことを考えていたところで自分が大変に器量の狭い人間であることに気がついてしまった。大人たちがそれが幸せであると思って並んでいるのであれば、その真実を暴く必要など全くない。コーヒーの香りを楽しんでいるときに、搾取され続けるコーヒー豆農家の惨憺たる状況を伝える必要など全くない。音楽の趣味が違うのと同じで、自分の幸せを他人に押し付けることも大変に愚かな行為である。もしそれが大切な真実なのであれば、自分が教える必要などなくとも伝わるし、それを知ったところで彼らが行動を変えなければならない理由は一切ない。

ここで終わればよかったが、さらに自分は長蛇の列を見たくらいで何をカリカリと憤っているのだろうかと考えてしまったせいで、僕はまさに自分にこそ憤っているからであることを知ってしまった。自分がしている仕事には誇りを持っているが、基本的にそれは自分の虚栄心に基づいて選んだ仕事だ。本当にやりたいことなど未だに何か知らないし、自分の幸せが何かも知らない。7つも年下の人から何のために生きているかと問われたら、親の人生を肯定してあげるため、そのために自分は頑張って生きていると答えてしまうような僕である。「それで自分は幸せなの?」との真っ直ぐな視線に僕は耐えられない。思わず逃げ出したくなるし、泣き出したくなる。だからこそ、自分の人生をいっときの高揚感に任せることが幸せであると決断した宝くじ売り場に並ぶ人たちのことが正直羨ましくてしょうがなかっただ。その人達に勝手に色々なレッテルを貼っておとしめることで優越感に浸ろうとしていたのである。実に下劣で恥ずべき行為としか言いようがない。

「人は鏡」とはよくいったもので、人を通して自分を知ることは本当によくある。今回もご多分にもれずだ。

 

なお、表題の質問に答えることはできない。それは本人たちが決めることであるし、まして幸せでなければならない理由もない。

 

それでは、もんもん。