【告白】僕も偽善者です、たぶん。

広辞苑 第五版を開くと(電子辞書ですが)、

偽善…本心からでなく、みせかけにする善事……とある。

 

この定義を前提にすると、僕は、基本的に人間の行動は全て偽善的であると考えています。同時に、偽善的であることを恥じる必要は全くないと考えています。

 

人間が抱く動機は種々雑多ものが入り組んでいるため、たった一つの動機、すなわち100%本心から善事をすることは常人には不可能だ、と考えています。僕たちはマザー・テレサにはなれません。

また善事であっても、結果としてそれが自己の存在証明・自己の存在意義の肯定・その他有形無形の利益につながることは否定できません。本人がその事実に気づいていなくても、周りからすれば偽善的に映るでしょう。

 

ざっくり言えば「何が偽善だとか考えるの面倒だから、全部偽善で割り切っていいんじゃね?」という考え方です。

 

この意見に対し、僕の友人はこう言いました。

「確かに偽善的な面があることも否定はできない。しかし全て偽善だと割り切るのは違う。偽善はどこまでも偽善。例えば、本当に大切なもの、身近なものから大切にできなくて、偉そうに世界平和だと言ったって、それは偽物の言葉であって、偽善だろう」と。

 

ふーむ。なるほど。

確かに身近なものから大切にする姿勢は、とても大事です。

しかし、友人と僕の意見は根本的に乖離しているように感じました。

 

友人の「偽善はどこまでも偽善」という意見は、「悪はどこまでも悪」「正義はどこまでも正義」という考え方と親和性があるように感じます。言うなれば「白か黒か」のギンガムチェックの世界。

一方の「全て偽善」とする僕は、「善と悪の線引きは基本的にできないし、究極的にはすべきでもない」という考え方を根本に持っています。言うなれば「全てグレー」のグラデーションの世界(法律勉強しててこんな考え方の人は、少数派なのかな?)。

この世界観の乖離は大きいかもしれないです。

 

もう一つ思い浮かぶのは、坂本竜馬について。

彼が脱藩をしたことで、実家や土佐藩にそれなりの被害があったと思います。つまり、彼は家族や藩という身近な存在を犠牲にして、日本社会のために大きな事を成し遂げた。

え?それってもしかして「偽善」?

しかし、あの名言「日本を今一度洗濯致し申候」を聞いた時、僕たちはそれを「偽物の言葉」とか「偽善」とは感じないと思います。

なぜなのか?

 

これについてはまたの機会に書くとして、みさなんはどう考えますか?

 

ということで最後に、名言を引用するという荒業でこの記事を締めようと思います。

 

『自分の国で苦しんでいる人がいるのに他の国の人間を助けようとする人は、他人によく思われたいだけの偽善者である。大切なことは、遠くにある人や、大きなことではなく、目の前にある人に対して、愛を持って接することだ』―マザーテレサ(教えてくれた友人、ありがとう)

 

それでは。もんもん。