「法律学は、ケルンに石を積む作業」の謎。

「 なぜ法律学にはノーベル賞がないのだろうか」

その理由として、法律学は、「理科系の学問と異なって、飛躍的にその学問分野を発展させるような発明発見とは無縁であることが挙げられる」。

「理科系の分野でも、学問の発展はすべて先人の業績の上に築かれるものではあろうが、法律学はことにそれが顕著であるように思われる。」

「法律学の発展に寄与する者は、…先人の築いたケルン(引用者注・登山道に記念や道標として積まれた石塚のこと)にまさにひとつずつ石を積む、地道な作業をくりかえしていかなければならない」(参照・池田『民法はおもしろい』)。

 

「法律学はことにそれが顕著」…?

前回の記事で引用した池田真朗教授の言葉を、再度引用しました。

 

  池田教授も認めている通り、理科系の分野でも(その他経済学などの社会学系やおそらく文学なども)全て先人の蓄積の上に議論は成り立っています。1000個の”常識”を知れば、1001番目の”常識”生み出すことだって可能になるはずです。

 

しかし、なぜ法律学では、池田教授が「ことにそれが顕著」と強調しなければならないほど、石(議論)の積み重ねが大事なのでしょうか。

 

 それは、詰まるところ、法律学が”常識”を扱う学問だからだと考えられます。

 

法律=”常識”

法律を学問として学んでいると、ついつい「市民にとって一番よい結果をもたらす解釈論は何か」などと上から目線で考えてしまいがちです。

組織図でいうトップダウン方式みたいな感じです。

 

しかし、そもそも法律は国民が決めるものです。

無数に存在する国民意識のうち、「この場合は罰すべきだ」「この法律要件の効果はこうすべきだ」と、国民が常識的に考えている(と観念的に言える)ものを吸い上げ、明文化したものが、法律です。判例も、「この場合は、こちらを勝たせるべきだ」という国民の常識が反映されたものです。

いわばボトムアップ方式です。現場主義とも言えるかもしれません。

 

つまり、法律=”常識”なのです。

 

とすれば、法律学の発展=”常識”の拡大といえます。

 

しかし、人々の意識、すなわち常識は一日にして変わるものではありません。常識は、戦争や天変地異でもない限り、少しずつ時代を重ねていく中で変わっていくものです。

まるで風船に空気を吹き込んでいくかのように、ゆっくりと膨らませることによってしか、”常識”は拡大しないのです。

 

死刑制度はなぜ存在するのか

法律=”常識”と言いうるもっともわかりやす例が、死刑制度です。

 

現在の日本に死刑制度が存在するのは、学者たちがトップダウン方式で「死刑の存在が市民生活にとって良い結果をもたらすだろう」と判断したためなのでしょうか?

 

おそらくそうではありません。

死刑存置を肯定する論理はどれも脆弱です。死刑の抑止力についても有効なデータは揃っていないのが現状です。

現在一番有力な死刑存置の理由は、「死刑を廃止すれば、被害を受けた人やその家族の気持ちがおさまらない」という極めて感情的なものです。

つまり、死刑存置=”常識”となっているがゆえに、なんとなく廃止論が盛り上がらないのが現状です。

(この機会に「死刑制度存廃論の変遷と理論の再検討」という学生の卒業論文をざらっと読んだところ、そんな感じの事が書かれてました)

 

死刑制度が常識となっている以上、法改正によって死刑を撤廃する、又は違憲判決によって無効とするには、たくさんの議論の積み重ねによって、”常識を拡大させること”が必要となるといえます。

 

まとめ

法律=”常識”とは言っても、法律なんて知らずに生きている人が多数なのが現実です。

しかし、それでもなお「無意識に存在する国民意識を抽出したのが法律である」という立場を否定することは容易ではありません。

理科系その他の学問と違って、法律学が常識を扱うというある意味で稀有な学問であるがゆえに、法律学には「ケルンにまさにひとつずつ石を積む、地道な作業」が必要になると考えられるわけです。

 

最後に『民法はおもしろい』から池田教授の言葉を引用して、この記事を締めたいと思います。

 

『学者の目で見てすばらしい民法が良い民法なのではない。自己決定、自己責任の生活態度を取れる市民を得て、それらの市民に理解してもらえ、使いこなしてもらえる民法が、一番良い民法なのである。』ー池田真朗教授

 

それでは。もんもん。

 

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