言葉との向き合い方―この記事信じるべからず

先に言っておきますが、みなさん、今回の記事は結構大事です。

この記事を読むにあたっては、こたつに入ってみかんでも食べながら、ちゃんちゃんこ着用という正装をするのをお勧めします。

 

え、電車で読んでるって?

いいでしょう、全く問題ありません。

 

さて、言葉について、みなさんはどのような印象を抱いているでしょうか?

 

きれいな言葉、鋭い言葉、曖昧な言葉、耳に残る言葉など、色々ありますが、どの言葉を使うかは、自由ですよね。

でも、ときに言葉は人に誤解を与えることもあるし、その誤解から争いに発展することもあります。

 

では、僕たちは言葉とどう向き合っていこうか?というのが今回のテーマです。

 

タモリさんが考えていること

まずは、テレビのスキマ(@u5u)さんの書いた記事(タモリ学4 タモリにとって「言葉」とは何か)から、タモリさんの考えていることを引用します。

浪人生だった時にタモリは、ふと座禅を組もうと…部屋の隅であぐらをかき、目をつぶった。

…何時間も続けていると、…やがて、もうどうでもいいとヤケクソのような心境になり、ふっと目を開けた。タモリの視界に飛び込んできたのは、見慣れた窓の外のねずみもちの木。それがなぜか新鮮に美しく見えて感動したという。

 

 「もしかしたらね、小さい頃はいろんなものがそういうふうに見えてたんだと思うんです。それが、だんだんそう見えなくなってくるのは、やっぱり言葉がいけないんじゃないか。…言葉が全ての存在の中に入り込んできて、それをダメにしている。…オレの中では言葉がものすごく邪魔している…。」

 

そのブログ記事によれば、「タモリは、あらかじめ存在する世界の秩序に言葉が付与されていくというフッサール的な実在論の立場を採り、言葉によって世界が分節されることで初めて認識が生じるというソシュール的な構造主義の態度を排する」とのことです。

 

ふーむ、なるほど。

言葉が邪魔してるなんて、考えたこともなかったです。

 

ざっくり言えば「言葉が世界を形成しているのではない、事実こそが大事だ」という感じですかね。

 

言葉は、モノではない

僕たちは、まだまだ言葉を使う世界に生き続けます。

そこで「言葉が世界を形成しているのではない、事実こそが大事だ」というタモリさんの忠告の意味を考えてみることにしましょう。

  

まず、言葉は、モノそのものではありません。

言葉は、あくまでモノにおける特徴を抽出して抽象化したものにすぎません。

 

例えば、あなたが今このブログを読みながら入ってるコタツ。

コタツは、一説には「人を堕落させる悪魔の発明品だ…!!」とか言われることがありますが、一般的には「熱源の上にこたつ机を組み、こたつ布団を掛けたもので、布団の中に足を入れて暖をとる、日本の暖房器具のひとつ(wikipedia)」を指します。

したがって、“コタツ”は目の前のモノ、すなわち、あなたのコタツを表すことはできません。

 

では、例えばコタツの上に乗っかっているみかんに対して、「このみかんは美しいですね」と言った場合はどうでしょうか?

 

この場合でも、“このみかん”という言葉では、目の前のみかんを表すことは出来ないと考えます。

つまり、厳密に言えば「このみかん」という言葉は、「このみかん」について認識し知覚した瞬間のみかんを指すことは可能であっても、今現在、目の前にあるみかんを指すことはできません。

 

物事は常に変化しています。

そのため、実は言葉でモノを表現することは困難であるという事実があります。

そして、僕を含め、その事実をみんなあまり認識しないまま、言葉を使っている。

 

そこで、タモリさんの主張する「言葉が世界を形成しているのではない、事実こそが大事だ」の忠告の意味ですが、僕なりに次のように解釈します。

 

言葉は、モノではない。

言葉に頼りすぎると、目の前のモノが見えてこないことがある。

知覚はあくまで体験として自らがすべきであって、言葉に頼りすぎたり、言葉によって知覚したつもりになるのは、やめよう。

 

言葉の使い方は、人それぞれ

言葉に関しては、モノを表現するのが実は困難であるという事実以外にも、注意するべき点があります。

 

それは、言葉の使い方は人によって異なり、人それぞれであるということです。

人は言葉によって意思疎通したり議論したりしますが、言葉の使い方が違うと、それらが円滑にできなくなるため、言葉の使い方の違いには注意すべきです。

 

例えば、以前、友人と「それは偽善か否か?」という話をしたことがありました(参照:【告白】僕も偽善者です、たぶん。)。

そこでは、僕と友人の偽善感に大きな隔たりがあることを感じました。

議論をしていくうちに、友人は偽善=悪、僕は偽善=悪ではないというスタンスの違いがあるのではないかと気付き、なかなか伝えたいことが伝わらない歯がゆさを感じたのを覚えています。

 

言葉の使い方が違うというのは、言葉の定義が異なっている場合と、ある事実に対して着目する要素・特徴が異なる場合のふたつがあります。

例えば、「ぜんざい」は関東と関西で指すものが違うというのが前者(参照:意外と知らない「ぜんざい」と「おしるこ」のちがい)、息子の戦死を名誉とするか絶望とするかの違いが後者です(上記の偽善の議論に関しては、前者と後者がごっちゃになった感じで、説明が難しいかも)。

 

お互いに「これはぜんざいだ!」「ぜんざいじゃない!」、「これは名誉だ!」「名誉だなんてとんでもない!」と声を張りあげたところで、一歩も前に進むことはできません。

 

「あなたのいう「ぜんざい」とは、どんなものですか?」と一言、言葉の使い方を確認したうえで、言葉の使い方が違うだけならそれで一件落着です。

もしくは、その言葉を選ぶ前提となったお互いの事実認識に違いがあるなら、お互いに事実を確認しあう作業が必要となります。

 

言葉の使い方が異なることが多々あるという言葉の性質を意識することは、適切な意思疎通をするうえで、かなり大事ではないかなと僕は思っています。

 

さて、再びタモリさんの主張する「言葉が世界を形成しているのではない、事実こそが大事だ」の忠告の意味を、ここでの文脈で解釈してみることにします。

 

言葉は、人によって使い方が違う。

言葉に頼りすぎず、事実に基づいた議論をしよう。

 

まとめ

みなさんはお気付きでしょうか?

「言葉は、モノではない」は、事実に直面した場合の言葉の意義について、「言葉の使い方は人それぞれ」は、言葉に直面した場合の事実の意義についての記述で、それぞれ逆のアプローチによって言葉との向き合い方を考えています。

 

言い換えれば、前者は「具体的なものに直面した場合に抽象的なものに振り回されない」、後者は「抽象的なものに直面した場合に具体的なものを見失わない」となります。

 

にゃこファミリーのみなさんであれば、今の言い換えたものに似た内容が、実はすでに他の記事に出てきたことにお気づきでしょう。

 

前者については、抽象的な「たら・れば」に振り回されないで、具体的な事実に着目した方が気が楽だよね、ということを書きました(「後悔することを後悔しない」覚悟、ありますか?)。

後者については、実際のことを知らないのに抽象的な正論を振り回す奴はムカつくよね、ということも書きました(真面目な僕の就活論は、不真面目なポストイットに落ち着いた。)。

 

抽象的なものと具体的なものをいったりきたりして使いこなすことができるのは、人間の特権だと勝手に思っているので、今日の記事は大事だと最初に言ったわけです。

で、大事なものだからすでに他に記事で言及していたというわけです。

 

…以上、長く書いてきましたが、最後に一言だけ。

みなさん、僕が書いた記事に振り回されてはいけません。

特に、にゃこファミリーのみなさん、注意です。

 

なぜかって?

 

…それは、この記事が“言葉”によって書かれているからです。

 

それでは。もんもん。

 

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