大島優子が「仲間のため」にしてきたこと、それは"自己犠牲"だったのか?

映画を見てきました

みなさん、暑い日が続きますがいかがお過ごしでしょうか。

わたくし、前回ヲタ卒に関する記事(僕らのヲタ卒)を書きましたが、まだ安定して元気にヲタやっております。8月の東京ドームコンサートにもお邪魔させて頂く予定です。

 

そしてつい先日、というか昨日、AKBのドキュメンタリー映画を見てきたわけです(映画 『DOCUMENTARY of AKB48 The time has come 少女たちは、今、その背中に何を想う?』)。大島優子さんの卒業発表から卒業するまでの間のAKB全体の活動などがまとめられたものです。

 

 

映画の中で、大島優子さんは僕にとってちょっと以外な発言をします。

年末の卒業発表直後、「いつしか仲間のためにAKBをやってきた」と述べます。で、さらに続けて「私がここでもっと頑張れば、みんなが夢に一歩近づくんだ、そういう心境でした」とも言ってて。

 

いや、薄々感づいてはいたんですよ、彼女はきっとそうなんだろうなと。ですが、そこまで直接的な気持ちを吐露すると思っていなかったので、「やっぱりそうだったのか。そこまでの気概を持っていてやっていたとは!!」と改めて認識させられる形でショックを受けたのです。

その瞬間、僕のなかで何かが破裂して、思わず映画館の中で「優子おおおお!!」と叫ばずにいられましたよ、さすがにね。周りにもお客さんいたんでね。

 

誰のため? 

以前、こんなツイートを取り上げて、記事を書いたことがあります(法科大学院とAKB48に、共通点なんてある?)。夢を打ち砕かれながらも、ファンのために頑張ることって本当に大変ですよね、みたいな内容です。

 

ですが、その記事を書いた後から徐々に思うに至ったことがあります。

みんなファンのために頑張っているわけじゃなくて、やっぱり自分が楽しいからやっているんじゃないか?って。

ライブが終わった後のメンバーは、将来自分の夢が叶う叶わないにかかわらず、全力で楽しめたという実に清々しい表情を見せます。また握手会などのファンとの交流も、それ自体メンバーたちにとっては楽しいものであることも多いようです。何せその瞬間だけは世界のほとんどは自分の味方のように感じるのでしょうから。確かに辛いことはたくさんある。でも、やっぱり残っているメンバーは自分が楽しから、そして何より自分のためにAKBに残っているのではないかと考えるに至りました。

 

ですが、大島優子さんはハッキリと言いました。「仲間のためにやってきた」と。

そして、その仲間であった前田敦子篠田麻里子板野友美秋元才加増田有華などなど多くのメンバーが「やめていった」(劇中で大島優子は「卒業していった」という言葉を使わなかった)なかで、本当に辛そうにしていた時期があったのも確かです。

彼女は、自分のファンというよりAKBのファンのため、そして何より仲間のためにAKBの看板を背負ってきたメンバーなのだろうと、今回の映画をみて思ったわけです。

 

それは自己犠牲か

批評家の濱野智史氏は、その著書『前田敦子はキリストを超えた―〈宗教〉としてのAKB48』の中で、前田敦子の「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」という身を切り刻むような名言をもって、イエス・キリストのような自己犠牲の精神だと述べています。そしてその自己犠牲こそが人を感染させるのだ、と。

でも僕は、自己犠牲という言葉が好きではないし、自己犠牲を美徳化したくない。自己犠牲は単なる自己満に終わることがほとんどで、世の中がよくなるなんてことはこれっぽっちもないってことは、過去の腹切りを見れば明らかじゃないか。そんな自己満を美徳化するのは馬鹿げている。

もっとも僕は自己満の自己犠牲を糾弾する気はなくて、それで本人の気が済むならそれで構わないと思っています。一方で、一見自己犠牲に見える行為を、単なる自己満足ではなく、徹底した他己愛に基づいた自己愛によって成し遂げた場合こそ、称賛されるべきなんだ、そう考えたいのです。

他己愛がどうして自己愛につながるのかというと、それは"自分とは絶対的な個人である"という考え方(個人主義)ではなく、"自分とは、それぞれの人との関係性を束にしたものである"という考え方(小説家の平野啓一郎氏によれば分人主義)を前提にしているからです。

社会や他人との関係によって相対的に自分を位置付けていく以上、他人を愛することは、結局自分を愛することにつながります。具体的には、"大好きなあの人のためになりたい"="大好きなあの人と一緒にいるときの自分というものが好きだからあの人のためになりたい"という風に。

 

3人の偉人

先に言うと、ここはとにかくヲタヲタしい記述が続きます。面倒だったら飛ばしてもらって構いません。一方で、「徹底した他己愛」とは何かを考える上でのいい素材にもなっているので、僕としてはここを一番時間かけて書いています。

 

さてさて、300人近くいるAKBという巨大組織にあっても「徹底した他己愛に基づいた自己愛」という偉業を成し遂げたのは、おそらく3人。不動のセンター・前田敦子、AKBの良心・高橋みなみ、そして絶対的エース・大島優子、唯一この3人だけでしょう。

 

前田敦子さんは、「自分のことは嫌いだけど、自分の人生は好きです」と述べています。自分の人生とは、すなわち自分の周りで自分を彩ってくれる無数の人間たちとの関係性が前提となったものです。そして、誰も頼ることができないセンターというポジションを彼女が勤め続けてきたのは、周りから求められてやってきたことであって、最初から自分が望んでやってきたことではない。"歌もダンスもうまくない、さらに大して可愛くもない子がなぜアイドルなんてやっているんだ?"というアイドルに対する批判はすべて、"なぜこの子がセンターをやっているだ?"という前田敦子への批判へと変換され、それを最前線で受けることによって、彼女はAKBの外にいる敵と対峙し、AKBのメンバーを守ってきたのです。

 

高橋みなみさんが如何にAKBを愛し、そしてAKBのメンバー全員から愛されているかを示す象徴的な場面は、2012年の東京ドームコンサートの一コマです。まず、彼女は2011年の選抜総選挙のスピーチで「私には大きな夢(ソロ歌手として活動すること)がありますが、私はAKB48で何が出来るのかと考えたときに、AKB48にいながら夢を叶えたいと思いました」と述べています。そして2012年、前田さんの卒業直前の東京ドームコンサートで、前田さんとたかみなの二人の軌跡を歌詞にした『思い出のほとんど』を、二人で感動的に歌いあげます。その余韻が残る中、前田さんは「私たちはたかみなにいっぱい甘えてきちゃったから、たかみなは私たちのわがままばっかり聞いてくれてたから、これから先はたかみなの時間は自分にいっぱい使って」として、うれし涙を流しながらたかみなのソロデビューが決まったことを発表します。みんなも舞台裏でその様子を見守りながら涙を流し、口々に言います、本当に自分のことのように嬉しいと。大島優子さんも舞台にあがってきてから「これはAKBだけでなく、48グループ全員が嬉しいことなんじゃないかなって思う。たかみなは本当に一番自分を殺して、我慢して、抑えて、みんなのために、みんなのためにってやってきたから」とコメントしています。たかみなは、常に48グループのコンサートなどで指揮をとり、ときには「みんな腐ってるわ」「このままじゃ終わるな」「寝たいなら家帰れよ」「出来ないなら帰れ」などの厳しい言葉を全体にぶつけ、檄を飛ばします。メンバーという立場でありながら、誰もやらない嫌われ役を買って出ることで、グループの統率を図り、グループの質を落とさないよう彼女も戦っていたのです。

 

そして、大島優子さん。前田さんの好敵手であり、たかみなの戦友。2012年の夏に前田さんが卒業してから、2年間対外的にも対内的にもAKBを支えてきたの間違いなく彼女です。前田さんが卒業発表した直後、卒業のことを何も聞かされてなかった大島さんは、泣きながら(でも半分冗談ぽく)舞台裏で前田さんにこうこぼします。「どうすんのこれから…AKB…君いなかったら」。大島さんがこう発言する前に、前田さんは小さな声でこうつぶやいています。「あとはもう優子に任せる」。その後、2年間、仲間のほとんどがいなくなって「振り返れば板野友美秋元才加宮澤佐江もいない」という孤独を感じながらも、大島さんはAKBの後輩たちに自分が培ってきたもの考えてきたものを伝えようとその背中を見せ続けます。対外的にも、渡辺麻友さんや指原莉乃さんなどの新しいセンターの脇を支え、"AKBの看板"という役割に徹してきました。"AKBの顔"として批判にさらされるのは前田さんでしたが、"AKBとはこういうカラーですよ"という看板となってAKBへの入口となる人、それが大島さんでした。卒業するまでずっと握手会ではダントツ人気、即完売。"AKBの看板"としてライトファンに知ってもらって楽しませることはもちろん、その変幻自在っぷりでコアなファンたちのことをも楽しませ続けてきたのです。この2年間、対内的にも対外的にも、エース・大島優子にかけられた期待は相当のものだったと思います。夢が叶いそうな場所までもうすでに来ていて、自分でもそのことは十分に自覚していながらも、あえて夢の場所ではなく、ファンのため、後輩のため、仲間のため、期待を一身に背負い、原点であるAKBに留まる決断をしたこと、それは本当に尊敬に値するし称賛されてしかるべきだと僕は考えます。

 

徹底した他己愛とは?

この3者に共通するのは、自分がグループの中で何が出来るかを考え、求められている役割にとことん徹してきたことです。「徹底した他己愛」とは、こういうことなのかなと。

一言でいえば、滅私奉公みたいな。なるほど、周りから求められている役割に徹することは短期的に見れば自己犠牲のように映ります。しかし、彼女たちは青春の全てが詰まった場所であるAKBが大好きだし、自分の原点であるその場所がずっと残ってほしいと心から願っている。「徹底した他己愛」は彼女たちが愛するAKBに還元され、さらにAKB出身であることを誇りに思っている彼女たち自身に返ってくる。長期的に見ればそれは「自己愛」として完結しうる。

もっとも、他己愛にあふれるのならば、なぜ彼女たちは卒業したのか。確かにその疑問は難しい話ではあるんですが、「AKBのなかでやることがなくなったから」としか説明できないんでしょうかね。AKBの中での役割がもうなくなってしまったということは、大島さんらも感じていたようで、2013年12月(そう、卒業発表の直前!)のたかみなとの対談で「時代のニーズが変わった。私たちが何か教えるというより、私たちが時代に合わせていかなければならない」と述べています。

なお、「徹底した他己愛」を称賛するのだとしたら、「そういう考え方がブラック企業を生むんだ」とかいう反論めいたものが来そうです。これに対する僕の答えは、一応あります。ブラック企業の従業員とAKBのメンバーの最大の違いは、代替可能性の有無およびその自覚の有無です。すき家とかワタミの店長などはある程度誰がやっても出来るようにシステム化されているにもかかわらず、「自分がやらないと回らないんだ。自分がいなきゃダメなんだ」と思い込ませ、追い込まれるほど仕事をさせる、もしくはしてしまう。一方でAKBのメンバーは、自分の子供や友達が代替不可能なのと同じく、そのファンやメンバーにとって代わりが効きません。自分の目先の欲望よりも、自分がその団体にとって代替不可能であることを自覚し、求められた役割に徹する。それはとても大変な仕事であってなかなか出来るものではないから、とても賞賛すべきことだと僕は思っています。これは、自分の代替可能性を自覚しない(自覚させない)ブラック企業とその従業員とは全く異なります。ああ、ちょっと付言しようと思ったら長くなってしまった…

 

まとめ

以前の記事で、AKBメンバーの多くが大島さんを目標とする理由を、「本気で自分の幸せを追及する姿勢」にあるのではないか、と書いたことがあります(大島優子にとって、『センター』とは何か)。

その結論自体を変えるつもりはありませんが、言葉が足りなかったなとはずっと思っていました。その言葉をちゃんと表現したのが今回の記事になります。すなわち、「本気で自分の幸せを追及する姿勢」=「徹底した他己愛に基づく自己愛」、それこそがメンバーたちが大島さんを尊敬してやまない理由かと。

 

冒頭で出てきたドキュメンタリー映画のエンディングテーマは、『愛の存在』という曲でした。その一節でも「愛」は登場します。

 

僕らは何を信じる? これからの道の向こうに

涙は何を教える? 変わらない愛の存在

 

信じるに足る存在、それが愛という感じでしょうか。

 

また、笑福亭鶴瓶師匠は、A-studioで大島さんのことを「愛の人」と表現しました。自分のことのように人を愛せる、そういう強さを彼女は持っていると。

他己愛を、「強さ」と表現したことにはとてもうまいなという印象を抱きます。

 

 

 

…ですが。

 

ですが、ですよ。

 

 

 

ここまで散々「他己愛」だとか「自己愛」だとかほざいてきました。

 

 

けど、

 

 

そもそも「愛」って何なのでしょうかねぇ。

 

 

全然わかんないや…(笑)

 

結局、「大島優子って、すごいよね!」ってことを僕は前の記事を含めて言いたかった。一応その目的は達成できたと思っているので、今回の記事は最後に名言を引っ張ってきて終ろうと思います。

 

『誰であれ、他人を誠実に助けようとすれば、必ず自分自身をも助けることになるというのは、人生の最も素晴らしい報酬の一つである』ーラルフ・ワルド・エマーソン(米国の思想家)

 

それでは。もんもん。

 

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