秋はぎんなん 祭りはしゃちほこ

 

僕はお祭りが好きだ。参加するのも好きだし、作る側として頑張るのも楽しい。高校の時、文化祭の実行委員をやっていた。みんなで夜遅くまで色々作業して、友人の家に泊まったりもした。祭りが始まり、2日間が熱気に包まれる。最後、後夜祭が終わったあと、僕はメイちゃんのようにわんわん泣きわめいた。「終わってほしくない…!!」。涙で前がよく見えず、嗚咽をあげながら、会場をとぼとぼ歩いていた。普段おちゃらけているだけで正直全然頼りない実行委員の同期から「まーまー、そんなに泣くなよ」と慰められた。今でも忘れない。互いに抱き合って(男同士である)、僕は盛大に泣いたのだ。相手は僕より随分背が低かったから胸を借りることもできず、そらで泣いた。こういうとき、背の低い女の子はいいよなぁ。一度でいいから広い男の胸に飛び込んで、「このバカ!!心配したんだから!!」とかやってみたいものである。壁ドンされるのもいいかなぁ。とにかく、当時の僕は 自分たちが心血を注いできた祭りが終わる… 明日からどう生きていけばいいのだろう… そんな気持ちで一杯だった。

 

僕がこの短い人生で学んだ教訓のひとつは、“祭りが終わっても、日はまた昇る”ということだ。昨日までの祭りがまるで夢であったかのように、朝はやっぱり肌寒く、通勤ラッシュでサラリーマンはしかめっ面をしているし、女子大生たちは来週月曜1限の心理学でいかに代返をするかを考えている。休んでいいのが3回だけ、とのことらしい。学校へ続く通りは相変わらず銀杏臭い。僕らが世界の中心がここであることを確信して熱狂した昨晩の記憶など、そもそも存在しないかのように、お日様は変わらない表情を見せてくれる。「おはよう。今日も元気かい?」。こんな風に。

 

“変わらない”というのは残酷だ。世界を変えようと本気で考えている人にとってそれは容赦なく絶望を与えるだろう。“変わらない”というのは希望だ。平穏な日常を過ごしたい人にとってそれは安息の地でありうる。僕がどれだけ賞賛される仕事をしたとして、明日も変わらず東から日は昇るし、僕がどれだけ重大な失敗をしたとしもて、明日も変わらず西に日は沈む。そして、語りけてくるのだ。「おはよう。今日も元気かい?」と。

 

僕がなぜ祭りが好きなのかはよくわからない。ソース臭くて、趣味の悪い屋台の看板があちこちにあって、威勢の良い声が飛び交う。銀杏をしゃんしゃんと炒る音が僕は好きで、初詣の帰りにはいつもその場で殻を割ってもらって家に買って帰る。そして食べながら毎年思う。「そんなにうまくねーんだよなぁ」。ついでに思い出したからいうと「お兄さんどう?あなたの○○、△△にしてみせるよ」というのは名古屋の歓楽街で外人の怪しい客引きおねーさんが使う決め台詞らしい。知らないと分からないと思うが、○=ういろう、△=しゃちほこ。ただの下ネタじゃねーか。

 

好きという感情は難しいもので、なぜか大人になると「好き」をあまり表明できなくなる。「嫌い」はそこここに溢れているにも関わらず。なぜなのだろう。先にこっちから嫌いといっておけば、傷つかなくて済むからだろうか。それとも、一度好きと言ってしまえば、何かしらそれにコミットしなければならない義務感のようなものを感じてしまうからだろうか。僕の場合、たぶん両方とも当てはまる。好きなら好きでそれ以上それを行動で示す必要は本来ないし、コミットする必要もないはずだ。でも、恋愛とかで一度好きと言ってしまったら、一気にものごとは動き始める。傷つくかもしれないし、行動で示す必要が出てくるかもしれない。そういった意味では、常日頃から自分の“好き”という感情と向き合って、表明して、それとの上手い付き合い方を心得ておくべきなのかもしれない。というか、誰か教えて。一応言っておくと、僕はNMB48山本彩さんが好きなので、そのへん宜しく。

 

そうだ、そろそろ母校の文化祭の時期だったっけ。そう思って調べてみたら、今年は今週末の日曜と月曜の休日にやるらしい。あの時間は本当に夢のようだった。そう何回も口に出して言ったのを覚えている。高校生の諸君には大いに夢のような時間を過ごしてもらいたい。そしてその夢が終わったら、ひとつ、なぞめいた答えの出ない問いをふっかけようと思う。「君は昨日のことを夢のようだったというだろう。しかし、そもそも、今が夢でないとどうしていえる?本当の自分は寝ているだけかもしれないぞ」なーんて。

 

それでは。もんもん。