社会人と学生って実はあんまり変わらないのではないかという話

https://twitter.com/hiraki0803/status/532074298916077568

この前の11月11日、ツイッターである画像が流れてきた。ポッキタワーとは何ぞや。馬鹿すぎる。あまりにも下らない。しかも食べ物を粗末にしている。どうせ部活も引退して暇になった高校3年生あたりが作ったのだろう(彼らは大学付属高校ゆえ大学受験はない。絶対に暇だ、絶対に)。いや、そりゃあ僕も普段全く食べないポッキーくらいは頂く。むしろポッキーパーティーだったし(僕はおこぼれに預かっただけだが)。

学生の頃が一番楽しかった、という意見を聴く。確かにそうかもしれない。将来の不安はなく、親の庇護のもと、伸び伸び生きていた。中学の頃は、15分休みに鬼ごっこをして汗だくになったり、冬場のお昼休みにはみかんの皮をみんなで投げ合って"みかん戦争"をしていたし、教室の端では何かの拍子に15人位の壮大なおしくらまんじゅうが始まることがよくあって、教育実習で来た女の先生を泣かせたり(うちは男子校だったからクラスメイトの連携はバッチリだ)、体育の授業のときにそいつのパンツが丸出しになるくらいずりパンしまくって、先生の名前を大勢で叫んで逃げたりとかして、高校の頃は、顔にストッキング被って「ピクミン!」とかやったり、夏場に上半身裸で廊下を歩いていたら相撲部に勧誘されたり(僕はデブではない)、木村拓哉竹内結子の月9『プライド』の影響でアイスホッケー部に入ろうかと一瞬だけ思ったり、夏冬関係なく部活で毎週海に出かけてそこらへんのギャル男より色黒かったり(日焼けが目的ではない)、相変わらず教育実習に来る女性の先生は泣かせるし(うちは男子校だからクラスメイトの連携はバッチリだ)、色気づいて初めて彼女が出来たり(その人とはキスも出来ずに1ヶ月で別れた。え、そういうのって付き合ってたって言わないの?)、他の男子校の文化祭に行って女の子にうちの文化祭のビラ配ったり、文化祭が終わるのが寂しくてわんわん泣いたりもして、大学の頃は、いかに授業を休むかと彼女を作るかばかり考えていて、大学院の時もさほど変わらなかった。一言で言えば、無駄な学生時代だった。

一方で、学生が一番楽しかったなんて、立派な社会人が何を言っているんだという意見もある。自分の裁量とお金次第で学生時代に出来なかったことはどんどん出来るようになるし、何より自分の責任で仕事をすることは楽しい、とのこと。僕はまだ研修中の身で、実際に仕事をしていないのでそれはよくわからない。ただ先輩たちの仕事ぶりは近くで見させてもらってきた。そして、みんな結構楽しそうに仕事をしてるっぽいからきっと辛いことや詰まんないことがいっぱいありながらも、それなりに楽しいこともあるのだろう。

僕は最近、『ピューと吹く!ジャガー』というギャグ漫画を、全巻揃えた。ドカーンと大人買いしてやったというわけだ(中古20巻2000円激安送料無料のアマゾンさまさま)。ある人からこう言われた「ジャガーさん(注:漫画の主人公の名前)を大人買いって最高の無駄遣いだよね」。「最高」の意味が良い意味なのか、悪い意味なのか分からなかった僕は、とっさにカッコつけてこう返した「なんか急に無駄で無意味なことしたくなって」「2000円で「あー無駄なことした!」が得られるのは嬉しい」と。この取って付けたような理屈よ。

学生と社会人の違いってこういうところにあるのかもしれない。学生は無駄で無意味なことをしていても、親の愛情によってその存在が肯定される。というかむしろ制度上、学生がすべき勉強のかなりの部分は"教養"ということで将来の職業につながらないものばかりで、知っているに越したことはないし、少なくとも知っていて損はないみたいなものばかりだ。興味関心に従った勉強をするとしても、やはり無駄なものも多く学ぶ必要がある。だから学生のほとんどは無駄で出来上がっている。一方で、社会人はそうはいかない。常に結果が要求される。そこに労働の対価が発生する以上、意味のない行動は許されない。給料泥棒という言葉が存在することが十分それを物語っている。学生時代に培ってきた無駄を、どうにかして社会に適合する形にデザインしなおして、ひねりだす。それによってお金を得て、生きていく。

一応社会人になった僕は、無駄なことをするために"2000円も"払ったわけで、さらにそれが"無駄であることに意味がある"かのような理屈をこねくりだして、自己を正当化している。無駄なことに本来金を払う必要なんて全然ないし、無駄なことは無駄なことで本来そこに意味なんてある必要はない。無駄や無意味さを肯定できない社会人の論理が僕にも染み付き始めているのかもしれない。

しかし、一義的、短絡的、合理的に詰めて考えれば、この社会には無駄なものが腐るほどある。終わらない会議や同窓会ほど無駄な時間はないし、紙なんてCO2を増やすだけだし、スカイプがあれば会う必要もなく、クリスマスほど意味不明のイベントもないし、血縁を大切にするという発想も根拠が無くて、パソコンがあれば物理的な学校はただの鉄塊にすぎない。無駄なことにいちいちツッコミを入れていたらそれだけで人生が終わるレベルでこの世は無駄で溢れている。

するとどうか。この世に生きている社会人は、有意義に生きることしか許されないと思っていながらも、実はほとんど無駄で構成されているともいえないだろうか。学生の特権であると思っていた無駄や無意味さからは、社会人であっても逃れることはできない。社会人が意味があると思っていることは、実はその人が属するコミュニティで意味があるとされているにすぎず、もっと俯瞰して見れば無意味で無価値で無駄なことばかりなのだろう。歴史的、大局的に見れば、戦争とかどう考えても無駄でしょ。歴史上の人物たちは頑張ったんだろうけど、もっとWin-Win探っていけよ、みたいな。

"好き"という感情でさえ、本当は意味がないものかもしれない。でもそんな寂しいこと、言わないで欲しい。好きという感情が存在しているという事実は、それだけで鮮やかで、ピカピカと眩しいものだし、その事実そのものが大事なのであって、そこに意味があるかなんていう事実の評価はどうでもいい。結局どんな物事だって宇宙的に見れば無意味なんだろうから。そもそも好きという感情はそれだけで完結するもので、何かの手段でも目的でもないから、意味という概念を持ち込むこと自体ナンセンスかもしれない。

そんなこんなで僕は、無意味さを愛せる社会人になりたい。これは社会的に意味がある仕事だぞひひひーなんて滅多なことを思わずに、淡々と目の前の仕事に取り組むだけで満足出来る社会人になりたい。意味もないことをして、楽しく、好きな人と朗らかに生きていける社会人になりたい。

 

だから、誰か今度僕とポッキーゲームしてくれ。

 

それでは。もんもん。

 

参考記事:僕は意味と友達になりたい

 

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