人を感動させるのって結局は人だよね

「っていうか、めちゃめちゃ久しぶりだよね」

そう言われるのも無理はない。昨日会った友人とは、たぶん10年ぶりくらいにちゃんと会って話をしたのだから。彼は高校1年のときのクラスメイトだが、おそらく彼も僕と前に話したときの記憶はないと思う。でもひょんなことからフェイスブックで連絡をとるようになり、僕が日本に帰国してから会うことになった。10年ぶりに会った彼は思ったよりも背が高く、声も低く、かっこよかった。15歳の時のあのイメージとは大きくかけ離れていないものの、しかし確かに大人になっていた。

ここ10年の事や将来の事について彼と2時間ほどお茶をしながら談笑した後、彼の提案で、ピアノリサイタルを聴きに行くことになった。なんでも、ドイツに留学中の日本人ピアニストが一時帰国してリサイタルを開くのだそうだ。僕にはピアノに関する知識もクラシック音楽に対する興味も一切なかったが、友人からの誘いを断る理由はなかった。なぜなら、ドイツ留学中のピアニストというのもまた、高校1年のときの同級生だったからだ。

 

リサイタルが始まった。ステージの中央に向かってこつこつと音を立てて歩を進める。深々とお辞儀をし、顔を上げる。ピカピカの靴、光沢のあるネイビーのシャツ、そして黒いスーツ。いかにもピアニストという出で立ちだ。彼ともまた10年ぶりの再会である。

ショパンラヴェルシューベルトと、僕にはからっきし分からなかったが、一緒にいた友人いわく「どこか影があるような曲」を中心に展開された演奏会は、2時間、あっと言う間に終わってしまった。

たしかショパンスケルツォ第3番という曲を聴いていた時だったと思う。激しさと静けさが繰り返される中で、控えめに言っても、僕は彼の演奏に感動してしまっていた。実際、感情が高ぶって今にも涙がこぼれ落ちそうな状況だった。 

もちろん僕には彼の演奏がどれほど素晴らしかったかなんて分からない。しかし、彼の生き様そのものに心が揺さぶられてしまった。2時間もの間、衆人環視の状況下で、自分の指、足、体幹から鍵盤を通じて奏でられる音に全神経を集中する。傍から見ていてもその緊張感がびしびしと伝わってきたし、憑りつかれた様に弾く姿からは気迫が溢れていた。ひいては、一日8時間以上ピアノを弾き続ける生活を彼は7年以上も続けているのだ。

誰に言われたわけでもない。誰に雇われているわけでもない。誰に褒められるわけでもない。しかし彼は自分の演奏に満足することなく高みを目指し、自分との闘いを続けている。それがどれだけすごいことか。

 

彼のその情熱は一体どこからくるのだ?

ひるがえって、僕の情熱は一体どこにあり、そしてどこに向かおうとしているのだ?

彼の演奏を聴きながら僕はひたすら内省してしまい、ついには感情が高ぶってしまったというわけだ。

 

「今後どうするの?」という質問を、リサイタル終了後の友人に投げかけてみた。ピアニストとしての道を歩み始めている彼であっても、今後どうするのか、つまりはドイツに残るのか日本に帰るのか、はたまたどのようにピアニストとして活動していくのか、まだ分からないらしい。このことはとても興味深かった。

実はやりたいことをやっている人ほど、将来の自分がどうなるのかはわからないものなのかもしれない。とりあえずそれを続けるつもりではあるが、実際のところ、将来それが社会のどのような場所で必要とされるか分からず、自分では思いもかけないところからお誘いが来たりすることがよくあるからだ。

一方で、最初から周りに言われたことをしている人ほど、将来の自分の道が見えているのかもしれない。最初から社会から必要とされるほどのいわゆる“優秀”な人材であり、周りから求められていることが前提だが、社会によってある程度道が敷かれているともいえ、良くも悪くも将来が見通せる。

 

僕は今まで10年近く同じ分野の勉強を続けてきて、仕事をするにしてもそれに関連することをしていくのだろうとは思うが、一方で10年後の自分が何をしているのか全く予想できないのも本心である。自分の中にひとつの軸はありながらも、そこからどのように社会に求められ、価値を提供し、また自分の人生が発展していくのかは未知数なのだ。

そんなわけで、ピアニストとして孤高な闘いを本気で続ける彼とちゃらんぽらんでぐーたらな自分を比べるなんて畏れ多いものの、勝手に類友のような気がして、大いに勇気づけられた次第である。

 

幾度となくぶつかってきた「自分は結局何がしたいのだろうか」という疑問。これに対する答えは相変わらず見つからない。

しかし、やりたいことなんてきっと常に変わる。なぜなら、人生において唯一変わらないのは、「自分は変わっていく」ということだけだからだ(「やりたいことがわからない」けど明日も日は昇る)。何がしたいかなんていう込み入った疑問は、動き出してから考えるのが得策だ。一歩踏み出さなければ見えない世界が山ほどあるし、助言をくれる人にも出会えるだろう。

そして、くれぐれも“自分の未来はだいたい決まっている”などという錯覚に陥らないように、たまには「自分は何がしたいのだろう」と立ち止まって考え、心行くまで悶々としようではないか。悩みを抱きしめて、今を懸命に生きようではないか。

それは“優秀”ではない人にだけに与えられた特権なのだから。

 

それでは。もんもん。