ヨシモト見に行って「現実とは何か」を考えたという話

みなさんは、渋谷にも吉本の劇場があることをご存知だろうか。ヨシモト∞(無限大)ホールという名で、日夜、芸人たちがしのぎを削っている。

昨日のこと。友人と渋谷で回転寿司を食べ終わったのが18時20分。今日は日曜日で明日からまた仕事だけど帰るには早すぎるし暇だなとなったので、何となく吉本でお笑いライブを見に行くことにした。∞ホールの入口まで行ったところ、ちょうど開始5分前だったので、あまり知っている芸人さんもいなかったが(僕はあまりお笑いに詳しくない)、即決で入ることにした。

僕は、関西にいた頃になんばグランド花月で2回ほどお笑いライブを見たことがあったが、∞ホールは初めてで、同時にすり鉢状の会場というのも初めてだった。どのようなライブになるのだろうとわくわくしながら、前から6列目くらい、右側の端に近い席に座った。すり鉢状の会場の端あたりに座ったということもあり、他の観客の表情や体の動きなどがよくわかる。やっぱりお笑いって女性のお客さん多いんだな、と思いながらも、一人で見に来ているおじさんなどもいて心なしか安心した。

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10組の芸人たちが漫才やコントなどを披露した後、最後に15秒トークというコーナーがあった。要は15秒で面白い話をしようというコーナーだが、そのトップバッターに名乗りでたのがテゴネハンバーグの松村という芸人であった。

彼は「先輩」というカテゴリーのネタで、カラテカの入江がみせた珍事について語り、見事に15秒で会場の笑いをかっさらった。もちろん僕もその友人も爆笑した。

ただ、そのネタが本当にそんなに面白かったのかというと、別にそんなこともない。一般人が飲み会で同じ内容を話しても、大爆笑を得ることは至難の業だと思う。

お笑いのライブやアイドルの劇場などでフリートークなどを実際に見たことがある人にとっては当然のことと思うが、現場では「笑ってもいい雰囲気」というのが明らかに存在している。だから、会場の雰囲気が暖まってからでないと、笑いというのを引き出すのはかなり難しいように思える(テレビであえて笑い声が挿入されたり、しっかり笑っている芸能人ほどワイプで抜かれたりするのは、茶の間を暖めることを狙ってのことである)。

松村に話を戻すと、彼は、その前に披露した漫才で大爆笑だった。テゴネハンバーグの漫才にはあえて間があり、「松村がこのあと絶対面白いことをいう」という雰囲気が整った後、笑いをとるというスタイルであったため、一度ツボにはまると、松村の発した言葉の全てに笑ってしまうような状態となる(実際、松村が何か言葉を発する前に、会場にいた人の多くは口角があがってしまっており、笑う準備がしっかりできていたのだ)。

松村はすでにその「笑ってもいい雰囲気」を自らのものにしており、「こいつのいうことはきっと面白い(だから、笑っても大丈夫だ)」と、みんなに笑う準備が出来ていたので、15秒トークでもしっかり笑いをとることができたのである。

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さて、本題である。

今回、この記事で考えたいのは、「現実って何?」ということである。

ポケモンGOについて説明は不要であろう。僕はレベル14くらいでやめてしまったが、居酒屋のなかでゼニガメを捕まえた時は、おもわず「ポケモン、ゲットだぜ!」と叫びたくなってしまったのを覚えている。

そして、やくみつるが「ポケモンGOに打ち興じている人を心のそこから侮蔑します。現実は面白いことに満ち溢れているのに」といった発言をしたことも記憶に新しいと思う。僕はこのやくみつるが発した現実観に同意できなくもないが、どことない違和感も感じていた。

そして、やくみつるにさくっと反論したのがメディアアーティストの落合陽一である。

これだけ読んでもさっぱりわからないが、詳しくは次のとおりである。

 今の世界にリアルとバーチャルという線引きはすでになくなっていて、すべてのものがリアル(現実)であり我々は今、物質(マテリアル)と実質(バーチャル)の境界線上のリアルを生きている。つまり、データが形になっていれば、物質的に存在しているかどうかは関係がない。どこで納得いく解像度になっていくのか、ということを人々が選択していくに過ぎない状態になっている。ポケモンは物質的には存在しないけど、実質的にはいるんです。街中を歩けば、出会うこともあるし、スマホを通じてアクセスすることはできる。

研究者 落合陽一に聞くポケモンGOとフィールドコンピューテーション|SENSORS(センサーズ)|Technology×Entertainment

要は「その人が現実だと認識すればそれが現実である」ということのようである。ただ、この説明を読んでも分かったような分からないような、そんな日々がしばらく続いていた。

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お笑いライブの帰り道、僕は「今日のライブ楽しかったなぁ。しかし、あのフリートークでトップバッターだった人の笑いは何だったんだろう。雰囲気ってやっぱ大事だな」などと考えながら、ふらっと喫茶店に立ち寄った。最近はまっていた本の続きを小一時間読んでいたところで、衝撃的な話が目に飛び込んできた。

霊長類の社会的生態の研究を行っている心理学者が書いたもので、自分にとっては衝撃的な話がたくさん書いてある本なのだが、次の箇所である。

野生のチンパンジーの場合には、想像上の子供の世話をする様子が観察されている。…カカマという6歳のチンパンジーの子供…は小さな丸太をあたかも生まれたばかりの赤ん坊のように持ち運び、揺すってあやした。一度に何時間もそうし続け、木に寝床を作って丸太をその中に優しく寝かせたことさえあった。…カカマは弟か妹の誕生を予想していたのかもしれない。というのも、そのとき彼の母親のお腹には子供がいたからだ(フランス・ドゥ・ヴァール(訳・柴田裕之)『道徳性の起源』)。

そういえば、小さい時は誰もがごっこ遊びに興じたものだ。ヒーローごっこをしたり、おままごとをしたり(僕も小さいころ、よくソファーのうえで飛び跳ねながらマリオの真似でスピンジャンプをして、親をひやひやさせていたらしい)。もちろん彼ら彼女らはそれが現実世界で自分に与えられた役割でないことなど百も承知だが、そのときの彼ら彼女らにとっては、そのマントがヒーローの証であり、その泥団子が出来立ての手料理なのである。それは、紛れも無い現実だ。

しかし、なんとそのような仮想的な現実を創りだしてしまうことは、チンパンジーのような動物(人間ではない!)であってもするというではないか。

先の著者フランスはさらにこう続け、結論付ける。長いが引用したい。

ネオ無神論者が好んでするように、「重要なのは経験可能な現実だけだ。事実は信念に勝る」と主張すれば、人類から夢や希望を奪うことになる。私たちは自分の想像を、身の周りのあらゆるものに投影する。…ネオ無神論者とは、映画館の外に立って、レオナルド・ディカプリオが本当にタイタニック号とともに沈んだわけではないのだと告げるような人のようなものだ。そんなことなど、言われなくてもわかっている。ほとんど人は、この二重性に何ら違和感を覚えない。…現実の内容を豊かにするのは、私たちの持っているうちでもとくに愉快な能力で、子供たちのごっこ遊びから、歳を重ねるうちに抱く死後の生のビジョンまで、多岐にわたって発揮される。

現実には、本当に存在するものも、ただその存在を信じたいだけのものもあるのだ。

彼は、霊長類の生態の例も引き合いに出しつつ、「その人が信じればそれが現実で、もう一方に存在している現実とは別に矛盾するものではない」というようなことを言っているのだと思う。

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ここで僕は、さきの落合陽一の意見に完全に合点がいった。落合は「認識すればそれが現実」という言葉を使い、フランスは「信じればそれが現実」という言葉を使っており、その用語法に違いはあれど、広い言葉を使えば「その人が現実だと思えるものが現実である」ということに、どうやら違いはなさそうである。

例えば、電話。これはデジタル化された人の音声情報を電波で受信しているだけだ。生身の声とはやはりどこか違うし、いやむしろ結構違うのだが、まさか電話の先で全くの別人が話しているなどど疑う人は誰もいないだろう。

例えば、葬式。死化粧した遺体が棺桶のなかで眠っている。それを見て僕らは涙をこぼし、最後の別れを告げる。火葬され、遺骨だけが残る。しかし、死んだとされた本人は、本当はどこか南の島にでも言って生きているかもしれないではないか。本人と病院と葬儀屋がグルになって、精巧な人形でも作ってみんなを騙しているだけではないか。そうでないことの証明は誰も出来やしない。でも、あの人は死んだというのがみんなの現実である。

例えば、お金。みんなあのペラペラの紙幣をありがたがって使っているが、あれは国が発行した貨幣とは異なる。日本銀行という組織が印刷したただの「日本銀行券」にすぎない(ちゃんとお札のど真ん中にそう書いてある)。おなじく銀行口座の口座残高。あれもただのデータである。株価だってそうだ。本当に企業価値があんなに上下するものではない。もちろんいずれもちゃんと認識できるし、信じるに足る(とみんなが信じている)組織が出している数字なので、現実としてちゃんと機能している(その現実を大勢が信じることができないと、バブルなりハイパーインフレなりが起こるわけだが)。

例えば、セックス。いくら体を重ねても孤独感が癒えない人もいれば、幸福感で満たされる人もいる。その違いを「そんなものは現実ではない。要は腰を振って射精しているだけで同じではないか」といって認めない人はいないだろう。「この人は私のことを愛してくれている」と信じていれば、その人にとってはそれが高い解像度をもった現実であり、ただの支配欲の現れや性的欲求の開放にすぎないと感じるならば、その人にとってはそれが生々しい現実なのである。周りから認識できないからといって、それが現実でないなどとどうして言えよう(なお、記憶や感情なども遠くない未来で一定の解像度をもってデジタル表記される可能性は十分にある。詳しくは落合陽一『魔法の世紀』参照)。

すべてのものは現実であり、それ以外のものは、認識できない以上、定義を与えることすらできないのである。

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現実とは、かくも主観的で曖昧で、まるで雲のうえに寝っ転がるかのような危うさをもったものだが、しかし、それを認識し、もしくは信じているがために、その人に紛れも無く影響を与えているものである。逆に言えば、世界のすべてのものはその人に影響を与えていることになる。そのことを信じようが信じまいが、現実として認識してしまった以上、もう前の世界には戻れない。もっとも、どこからが認識できるか、信じることができるかは人それぞれであって、落合陽一のいうとおり「どこで納得いく解像度になっていくのか、ということを人々が選択していくに過ぎない」のである。そう、チンパンジーだって丸太を擬似的な赤子のように扱うという選択をしているのだから。

結局、何を現実とするかはその人の選択にかかっているのである。フランスのいうようにそれが最初は二重の現実だったとしても、いつの日かそれが重なり会う日が来るかもしれないし、それを重ねようと努力する人がいたって全くおかしくない。初音ミクだって将来「本物の人間」になるのかもしれないではないか(もっとも、いまここで「人間とは何か?」という議論はなされてはならない)。

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さて、ここで最初の話に戻ろう。「笑ってもいい雰囲気」というのも当然みんながそう認識し信じていてからこそ成り立つものである。なぜみんながそう認識し信じたのかという疑問に対して、僕は答える術をもたないが、少なくともいえるのは、あの松村という芸人こそがきっとその現実を信じて疑わなかった最大の張本人だということだ。

特に根拠はないけど、なんとなく、そう思う。

というか、そう信じたい。そう信じることで、それは僕にとっての現実となり、それが僕にとって何かしら影響を与えるのだと思うから。

 

それでは。もんもん。

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